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原始·三韓時代の韓日係 高句麗と倭
広開土王碑文と韓日関係 新羅と倭
伽耶と倭 統一新羅と日本
任那日本府説と韓日関係 渤海と日本
百済と倭
1. 原始·三韓時代の韓日関係

韓半島と日本列島が今日の地形になったのは、およそ1万年前に遡る。地質学でいう第4間氷期に入ると、気温が上昇して水面が高くなり、大韓(テハン)海峡と日本北端の宗谷海峡および津軽海峡などが生じて、日本はアジア大陸から分離されたという。韓半島と日本列島が海域により分離されると、両地域にはそれぞれ異なる文化が形成された。韓国の櫛文(隆起文)土器文化と日本の縄文土器文化がそれである。この時期、両地域の間では、船舶と航海術が未だ発達していなかったため、人の交流は不可能なものと思われていたが、考古学的調査により交流の実態を示す多くの事実が明らかになっている。1969年、釜山(プサン)の東三洞(トンサムドン)貝塚から、日本の九州地方で製作された縄文土器が発見された。数年後には、韓半島の櫛文土器が日本の越高遺跡から発見された。遺物の年代は約5千年前の物で、この時期にはすでに海上路が開かれていたのである。櫛文土器は九州の西北地方からも相次いで発見されたほか、日本産黒曜石で作られた鏃、釣り針などが東三洞貝塚からも出土され、漁労を生業とする海民集団の交流を示唆している。

紀元前3世紀ごろになると、韓半島南部から日本列島に農耕文化が伝えられる。農耕文化は単なる文化の伝播に留まらず、人の移動を前提としている。種蒔から刈り入れに至るまでの農耕技術と農地の開発、灌漑施設の造営、さらには四季の変化を熟知している人間集団の移住が行われたのである。農耕文化の伝来により、日本列島には縄文文化に代わる弥生文化が誕生した。最初、北九州に伝来した農耕文化は、速い勢いで北上し、わずか1世紀の間に本州の北端まで伝播した。農耕文化の伝来によって、人々は集団的居住地を設けて農業共同体社会を形成するようになり、土器から青銅器、鉄器など文物の伝播と受容が活発になっていった。また、外交と交易を通じて各地域の農業共同体社会は次第に発展を遂げ、漸次、地域的な統合が進められた。

今日の郡に相当する規模をもつ国が出現し始めた。王を頂点とする支配層があり、その下に生産に携わる一般庶民、そして戦争に敗れ服属民となった奴隷階層など、身分が分化した階級社会が形成された。農業共同体社会の王は、国の構成員の経済や安全と危険に対して責任を持つ首長としての責務を負う一方で、農業共同体の重要な儀式を司ることになる。

この時期、韓半島南部は三韓時代で、馬韓(マハン)54国、辰韓(チンハン)12国、弁韓(ビョンハン)12国があり、北方では夫餘、高句麗、東濊、沃沮が出現した。日本列島でも北九州を中心とした西日本各地に、農業共同体を基盤とする国が同時的に現れた。『漢書』地理志の、楽浪海中に倭人が100国余り存在したという記録は、そのことを物語っている。そして2世紀半ばになると、統合の機運が高まり、邪馬台国を中心とした30国余りが連盟王国を形成するようになる。

紀元3世紀まで、韓日両地域の交流の媒体として重要なものは鉄資源であった。農業共同体社会において、鉄資源はそれ自体が国力を示すものであった。鉄は、鉄製の農具や道具を作る素材として使われ、農地の開墾と水利事業にかかる労働と工事の効率性は生産力を倍増させた。さらに鉄製の武器を作り、戦争の優位性を確保する上で大きく貢献した。当時、倭人社会では独自の鉄生産技術がなかった時期で、韓半島南部から輸入した鉄を加工して製品をつくっていた。三韓時代の鉄の産地としては、金海(キムヘ)の狗倻国(クヤグック)が中心地であった。『三国志』「魏書」の中の弁辰条によると、当時、倭人のほかにも三韓の諸地域、東濊、楽浪に至るまで狗倻国の鉄を仕入れており、鉄は売買の決済手段である貨幣の機能も果たしていた。3世紀当時、日本列島の広域にわたる小国の地域的統合が展開されたのも、鉄の輸入をめぐる争いの結果と考えられる。このように、鉄資源を中心とした文物の交流により、韓半島南部と日本列島の諸政治集団は緊密な関係を展開していった。

2. 広開土王碑文と韓日関係

4世紀以後になると、韓日両地域の地域的統合はさらに活発化して、地域的な盟主国が登場するようになる。韓半島では高句麗、百済、新羅、伽耶諸国がそれぞれ地域的な基盤を整え、周辺の小国を統合して古代国家の形成を目指していた。日本列島では、北九州に代わって畿内の大和政権が胎動し、日本列島の有力な国として登場した。この時期、韓半島の三国は、領土を拡大する過程で戦争を繰り返していたが、相互間の勢力の均衡は維持していた。4世紀末、高句麗広開土王の南征は、こうした勢力の均衡状態を一気にして崩壊させた。当時、高句麗の主敵は百済であった。高句麗は4世紀後半、百済の攻撃を受けて故国原(コグクウォン)王が亡くなるなど、一時的に国家的危機に陥った。先代に受けた攻撃への報復として、高句麗の広開土王は、即位と同時に百済に対する大規模な軍事攻撃に乗り出し、数多くの城や村落を陥落させた。そして王都に入り、百済の阿莘(アシン)王を降伏させて、服従と忠誠を誓わせた。これに対し百済は397年、王子の直支(チョンジ、チクジ)を倭国に送って同盟関係を結び、伽耶諸国とも連合して高句麗と高句麗の支援を受けている新羅に対抗した。しかし、高句麗は紀元400年の庚子年に、歩騎5万の大軍を率いて南下を断行した。そして、新羅に攻め入った倭国を撃退し、これを機に韓半島南部に対する軍事的支配権を確立した。その後、百済は倭と協力して水軍による帯方界(テバンゲ、現在の黄海道)攻撃に乗り出したが惨敗に終わり、5世紀ごろには高句麗優位の国際情勢が展開されていった。

以上は、『三国史記』と広開土王碑に基づいた4~5世紀の国際情勢である。ところで広開土王碑には、倭が韓半島に出兵し、恰も韓半島南部の諸地域を支配したかのように記されており、波紋を呼んだことがある。その後、碑文が日本の参謀本部によって変造されたという衝撃的な碑文改ざん論が提起され、また解釈上の新たな読み方も登場するなど、碑文をめぐり未解決の課題が多く残されている。

広開土王碑は、王の死去から2年後の414年に、その息子の長壽(チャンス)王によって、王都の国内城(ククネソン)に建てられた。ところが高句麗の滅亡後、人々の記憶から忘れ去られたまま、千数百年ものあいだ荒波にもまれてきたが、1880年ごろ、地元の中国人によって再発見された。碑文の研究は、軍事情報を収集するため中国に派遣された日本参謀本部所属陸軍中尉の酒匂景信が、広開土王碑の墨本を日本に持ち帰った1884年以降本格化した。参謀本部編纂課の解読結果によって、碑文には倭が百済と新羅を攻撃して臣民とし、高句麗と戦った事実が記されていることが明らかになった。

当時、韓半島に対する侵略を準備していた日本は、古代日本が韓国を支配したとする碑文の内容に非常に興奮して、現実の侵略政策を正当化、合理化する歴史的拠所とした。この碑は、高句麗人によって書かれた客観的な資料として信頼できると主張し、一時は古代日本の韓国支配は、動かし難い事実として信じられていた。

問題になった碑文の内容は次のとおりである。

「百済と新羅は昔から高句麗の属民であるため、朝貢を納めてきた。ところが、倭が辛卯年以来海を渡り百済、□□、新羅を破して臣民にした」

このような解釈は「当時の歴史的状況に照らして相応しくない上、韓半島の諸国が倭に支配されたというのはあり得ないこと」だとして、臣民にした主体は倭ではなく、高句麗だとする読み方が流行った。しかし、このような解釈は状況論理に適っているとしても、碑文の論理的構成からみて、不自然なところがある。碑文の変造説も、その説の証拠である石灰塗付が行われる前の原石拓本が発見されたことで、碑文の内容は事実であることが確認された。

上記碑文は、次のように読むのが妥当な読み方である。「百済と新羅は昔から高句麗の属民であるため、朝貢を納めてきた。ところが、倭が辛卯年以来海を渡り百済を破し、新羅を□□して臣民にした」で、磨耗した二文字には動詞が入り、そして臣民にした主体は倭とみるべきだろう。碑文では、高句麗の臣民であった百済と新羅が倭の臣民に変わったことを意図的に表している。もちろんこれは、歴史的事実とは無関係の内容である。

では、高句麗が広開土王の業績を顕彰する碑文に倭の軍事的業績を記したのは何故であろうか。そして、碑文の内容は真実を語っているのであろうか。それが事実でないとすれば、納得し難い碑文の内容を如何に理解すべきであろうか。このような疑問を解くために、当時高句麗の支配層を規制していた儒教政治思想に注目する必要がある。

高句麗は当時、広開土王の祖父に当たる小獣林(ソスリム)王の代から儒学を奨励して大学を建てるなど、国の政治理念として儒教を受入れて発展させた。儒教でいう政治理念とは、徳治主義に則った王道政治を実現することである。碑文の内容は、まさにこの思想の影響を強く受けている。碑文の中間部分の3分の2に当たる内容が広開土王の業績であり、年度ごとの征服地と戦果を八箇条にわたって記録している。王道政治の実現という大命題を標榜しながら、無差別的な征服戦争をそのまま記録するわけには行かないのである。従ってここには、征服君主のイメージを道徳的君主へと昇華させるために、戦争の必然性、つまり戦争を正当化させて合理化する名分を明白に記しているのである。

広開土王の征服戦争の結果、高句麗優位の国際秩序が確立され、高句麗中心の中華思想、天下観念が生まれた。碑文は、そうした現実的な天下意識を反映しているのである。高句麗にとって韓半島南部は征服の対象であり、服属地とすべき地域なのである。このような理想を実現した高句麗は、これらの地域が元来、高句麗の属民であったことを強調している。ところが、倭がこれらの地域を臣民にしたので、倭の支配から解放させなければならないとの論理を展開しているのである。高句麗の戦争の論理と侵略の正当性を持たせるために、韓半島南部が倭の支配下に置かれたという仮想の事実を想定した上で、韓半島南部に対する軍事活動を記したのである。高句麗にとって倭という存在は、領土的に征服の対象でもなければ、百済に協力して高句麗と戦った異邦人に過ぎないのである。

つまり、倭は広開土王碑文において、高句麗の南下政策の名分の大前提として、高句麗の史官によって創られた存在なのである。これは、実体のない倭を創り出したというよりは、高句麗が戦争を通じて認識した倭を、名分の素材として利用したのである。碑文の一節だけで、古代日本が韓半島南部を支配した証拠とすることはできないし、史料の解釈を無理やり変えることで碑文の内容を否定するのも正しくない。これは、あまりにも自国中心的な歴史認識である。資料の中に書かれている碑文の論理や政治的イデオロギーを、正しく見極めることが大事である。残された全ての史料には、支配層が自らを合理化する内容が盛り込まれざるほかないのである。  

3. 伽耶と倭

伽耶(カヤ)の前身は、三韓時代の弁韓地域である。慶尚南道(キョンサンナムド)と慶尚北道(キョンサンブクド)の一部と、全羅南北道(チョンラナムブクド)の東部一帯にあった。具体的には、東は洛東江(ナクトンガン)、西は蟾津江(ソムジンガン)、北は陜川(ハプチョン)の伽倻山(カヤサン)を境界にした範囲に入る。古代国家への統合を実現できないまま、東西の大国、新羅と百済によって併合された。しかし伽耶諸国の残した文化的遺産は、優れた先進性を見せてくれる。そのため、周辺諸国の関心の的となり、盛んな交流が行われていた。

伽耶諸国の中でも金海の金官伽倻(クムグァンガヤ)は、早くから栄えた三韓時代の狗倻国を継承した、南部伽耶の有力国だった。狗倻国の伝統を受け継いだ金官国(クムグァングク)は、洛東江沿いの沖積平野の高い農業生産性をはじめ、豊かな漁労資源と鉄資源を基に、東アジア諸国と盛んな交流を進めた。3世紀当時、北九州の倭人たちも伽耶の鉄を手に入れるため、伽耶地域に群がった。鉄は貨幣の代わりに用いられるほどで、それ自体が決済手段となっていた。当時の支配層の墓から、決まって出土されるのが鉄であった。農業生産性の向上と鉄製武器製作の素材となる鉄は、支配者が獲得すべき重要な物資であった。鉄そのものが権力の象徴であり、王権の維持と支配体制を構築する上で、なくてはならない資源であるからである。

4世紀ごろの伽耶諸国と倭の関係を記した記録はない。4世紀ごろ、日本列島がどのような状況にあったかは、中国の文献にも記されておらず、いわゆる謎の4世紀と呼ばれている。邪馬台国は266年、中国の西晉への朝貢を最後に、記録から消えている。邪馬台国以後、九州の政治動向については知るすべがないものの、連盟王国としての邪馬台国の権力は衰退したとしても、その後を受け継いだ地域的な政治体制の存在は、引き続き維持されたとみられる。倭の諸勢力も、中国との通交が断絶した状況の中で、先進文物を輸入するため、韓半島南部地域との交流を一層盛んに展開したと考えられる。

金官国、卓淳(タクスングク)国、安羅国(アンラグク)など南部伽耶諸国は、3世紀の伝統を受け継ぎ、北九州など地域の諸政権との交流を続けていった。金海の大成洞古墳群における発掘調査で、4世紀前半と推定される古墳の中から、巴形銅器や碧玉製の矢など、倭系の遺物が出土した。これは、倭の首長層と金官国の支配者間における交流を象徴する物で、金官国が鉄を供給する代わりに、倭の首長は倭国で生産された儀器や米などを貢いだと考えられる。このような交流の歴史を背景にして、高句麗の広開土王の南征の際、伽耶諸国の仲介を通した百済と倭国の通交、倭兵の出兵、伽耶諸国の結集へと繋がる百済ー伽耶ー倭の政治·軍事的協力体制の形成が可能だったのである。

4世紀末から5世紀初めにかけて、高句麗の広開土王の韓半島南部地域に対する大規模な軍事攻撃は、東アジア諸国を動乱の渦の中へと巻き込んでいった。以後、かなりの期間にわたって韓半島南部に影響力を行使していたため、周辺の関連諸国は自国の政治的利益に応じて、敏感に対応していった。広開土王碑文中の永楽10年(400年)条によると、新羅から倭兵が新羅の国境に出没するとの知らせを受けた高句麗は、歩騎5万の兵力を新羅に送り込み、男居城(ナムゴソン)から新羅の王城の新羅城に布陣していた倭兵を攻撃、任那加羅(イムナガラ)の従抜城(チョンバルソン)まで追撃して城を落とした。この時、安羅国が兵力(安羅人戌兵)を派遣して倭兵とともに高句麗•新羅の連合軍に対抗したが敗北した。伽耶諸国が倭兵とともに軍事的な共同歩調を取ったという事実は、伽耶諸国と倭国の歴史的関係を理解する上で非常に重要である。つまり、南部伽耶の代表的な2国である安羅国と金官国(任那加羅)の対倭関係が、この時期にようやく始まったものではなく、以前から続いてきた延長線上で行われたのである。百済が倭に対し、軍事的派兵を要請するため阿莘王子の直支を派遣する過程にも、これら伽耶諸国が何らかの役割を果たしているとみられる。百済と伽耶諸国は4世紀後半、近肖古(クンチョゴ)王在位時に結んだ和親関係を基に伽耶の支援の下、倭国に請兵することができたのである。これは、伽耶諸国と倭の政治集団の間で続けられた交流と親縁関係に基づいて成立した。

高句麗の南征がもたらした波紋は計り知れないものがあった。高句麗の南征は、新羅をはじめ金官国や安羅国など、伽耶地域のかなりの地域に勢力が及んだと考えられ、これらの地域に対する軍事的な駐屯と在地勢力に対する統治権を行使したと推定される。高句麗の南征による波長は、日本列島にも少なからず影響を及ぼしているはずである。金官国をはじめ、諸地域の伽耶人のうち、一部は戦乱によって倭地に移住したとみられる。近年の研究によると、日本産の土器、須恵器の系譜が伽耶の陶質土器にあり、北九州で生産が始まってから近畿地域にも伝えられたという。その歴史的背景として、広開土王の南下にともない、伽耶人技術者集団が北九州に移住したという事実が推定される。伽耶人の倭地への移住は新技術と新知識の伝播であり、日本古代文化の発展に大きく貢献したとみられる。これら伽耶人の中には畿内の倭王権に召し抱えられ、倭朝廷に仕える者もいたことだろう。安那(アンナ)、三間名公(ミマナゴン)、己汶氏(キムンシ)、達沙氏(ダルサシ)、多多良公(タタラゴン)など、伽耶の国名や地域名を持つ氏族が史料の中に登場しており、伽耶からの移住民の存在を物語っている。伽耶人の倭地への移住と倭王権への参画は、以後伽耶諸国と倭国との関係をさらに密にする契機になったと考えられる。そして、倭王権の伽耶文化に対する関心はさらに高まったはずで、伽耶地域に対する強い愛着を抱くようになったと思われる。伽耶の滅亡後も、倭王たちが至上の課題として伽耶の復興を唱えていたのもこのためである。

6世紀に入ると、伽耶諸国は新羅と百済によって次第に消滅していく。6世紀の初め、蟾津江中下流域に存在した己汶国(キムングク)·帯沙国(テサグク)は、百済の南下によりその勢力圏の下に入っていく。この時、畿内の倭王権は百済に協力して兵力を送り込む。これは、倭が百済に協力して伽耶を攻撃したもので、この時、北部伽耶の大首長であった大伽倻(テガヤ)は、倭と軍事的な対峙状態を迎えることになる。伽耶諸国と友好関係にあった倭が、何故伽耶諸国への敵対行為に出たのだろうか。これは、日本列島の政治勢力と伽耶諸国の間で多元的な交流が行われていたことに起因する。外交の主体が一勢力によって独占されたのではなく、多様な勢力間の交流があったのである。蟾津江方面の伽耶諸国は、主に北九州を中心とした西日本勢力と親縁関係を維持した反面、洛東江下流域の伽耶諸国は畿内の大和政権と交流した結果とみられる。

532年には、金官国が新羅によって併合され、続いて周辺の卓淳国も新羅の領域に編入される。550年代になると、南部伽耶の有力国であった安羅国が滅びる。さらに562年には、伽耶最後の王国の大伽耶が滅亡してしまう。慶尚道一円の伽耶諸国が、何れも新羅によって併合されたのである。以後、倭王権は伽耶の復興を唱えるものの、歴史の大勢は新羅に移っていった。倭国にとって伽耶は、鉄資源をはじめ先進文物の供給地であり、このような交流関係が親縁関係に発展していった。伽耶と倭国は、鉄資源を中心に結ばれた関係だったといえる。鉄資源そのものが倭国の存立基盤であったからである。

4. 任那日本府説と韓日関係

古代の韓日関係史において、最大の争点となっている問題が任那日本府説である。いわゆる任那日本府とは、大和政権が伽耶地域に日本府という支配機構を置いて統治したというのである。大和政権が伽耶7国を平定する369年から、伽耶最後の王国大伽耶が滅びる562年までの、およそ200年余りをその支配の期間とみている。

これは、何れも日本の古文献『日本書紀』を拠所にしている。『日本書紀』の神功紀49年(369年)条によると、伽耶の主要7ヶ国が日本軍によって占領される。その後の伽耶に対する統治の様子については触れていない。さらに、欽明紀23年(562年)条には「新羅が任那官家を滅亡させた」としており、分註に「任那は滅びた。総体的には任那と言い、個別に言うと加羅国(カラグク)· 安羅国(アンラグク)·斯二岐国(サイギグク)·卒麻国(チョルマグク)·古嵯国(コチャグク)·子他国(チャタグク)·散半下国(サンバンハグク)·乞飡国(コルチャングク)·稔禮国(ヨムリェグク)」だと記録している。つまり、任那は伽耶諸国全体を総称することもあれば、個別の国をさすこともある。そして、これらの諸国は任那官家の管轄下に置かれており、任那官家は新羅によって滅亡したことを記している。雄略記7年条には任那国司という言葉が見られ、任那国司は日本現地から派遣されたことになっている。官家という言葉は、本来「屯倉」と言い、日本古代大和政権の支配機構のひとつとして、王室直轄領的な性格を帯びている。屯倉が国内的用語だとすれば、官家は海外的な意味合いが強い。すなわち任那官家とは、海外に置かれた日本古代王室の直轄領となるのである。我々にも馴染み深い、いわゆる任那日本府とは、ずばり任那官家をさすものである。これが『日本書紀』に描かれた任那日本府像なのである。

日本統治下の1916年、朝鮮総督府は古跡調査5ヶ年計画を策定して、韓半島全域に対する古跡調査を行ったことがある。これは、任那日本府の存在を確認するための計画と推定される。調査計画が終了した1921年、調査に参加した京都大学の濱田耕作は論文の中で、任那日本府の存在は先入見をもって考えてはならないだろうと、率直に吐露したことがある。

80年代以後行われた伽耶文化圏の発掘調査によって、伽耶文化の独自性と先進性を誇る遺物や遺跡が発見された。このような流れに沿って、新たな角度から任那日本府に対する研究が始まった。この時期、任那日本府に対する日本学界の見解は、伽耶側の立場を重視する方向で次第に意見がまとまりかけている。主な学説は次のとおりである。倭は伽耶の別称であるとの結論に基づき、任那日本府は伽耶の在地豪族によって構成された合議体だとする説、倭王権が派遣した官人であるという説、伽耶諸国が対倭外交のために設置した外交機関説、伽耶諸国が独立を維持するため伽耶諸国の王と日本府の官人が合議体を構成したとの説が提起された。一方、国内でも百済による支配機関説、伽耶諸国の独立保存のために活動した伽耶在地の人間集団説などが提起された。

これら諸説に共通して考えられるのは、大和政権による伽耶支配説は否定されているということである。これは、任那日本府の研究において重要な意義を持つものであり、伽耶と倭の関係史を研究する上で、新たな転機をもたらした。さらに、時期の問題も6世紀前半代に限定して、空間的には安羅国を中心に繰り広げられた出来事であるとする見方には、ほぼ意見が一致している。具体論になると、機能的な面と日本府構成分子の出資問題で意見が分かれているが、伽耶諸国の利益を保存する方向で、任那日本府の性格を規定しているのが衆論になっている。

任那日本府に関する唯一の史料である『日本書紀』には、史料の信頼性が疑わしい雄略紀の1例を除けば、540年代の欽明紀において集中的に現れる。伽耶諸国が新羅と百済によって次第に消滅していくという、国家的危機に瀕した時期的状況を考慮すれば、伽耶諸国が直面した緊急課題は、このような危機を脱することである。これは、任那日本府説を究明する上で前提条件となる。また、『日本書紀』の中で任那日本府は、独自の実体として動いているのではなく、いわゆる任那復興会議の中で現れているということだ。任那復興会議とは、532年新羅によって滅びた金官国など、その周辺諸国の復興に関する会議である。『日本書紀』によると、日本の天皇が任那の復興を切望しているものの、会議の主役は安羅国と百済になっており、なかでも百済の聖(ソン)王の意図が強く表れている。この復興会議の参加者には、倭系と思われる人物も見られるが、伽耶諸国の支配層と新羅、百済の官人が主導する国際会議的な性格を帯びている。さらに彼らは、日本天皇の指示に反する行動を頻繁に繰り返していることから、古代日本の伽耶支配説を反証する資料になっているということだ。百済が主導する任那復興会議は、殆ど「百済本記」という百済系の資料の中に現れている。したがって、6世紀代の伽耶諸国をめぐり競争関係にあった百済としては、この時期の伽耶関連史料を百済の中心に位置づけるほかなかったと思われる。伽耶地域への浸透を図る百済の努力は、自ずと伽耶を圧迫することになり、その渦中で任那復興会議を百済本位に進めようとする試みもあったと考えられる。しかし、それ自体、日本府の性格を語っているわけではない。

任那復興会議に現れる、いわゆる日本府の官人として登場する人物は親伽耶寄りで、反百済、非日本、非新羅的な立場を固守する性向が強い。これは、特定の勢力による支配機関説を否定する証拠であり、伽耶諸国が周辺諸国からの自立を目指す自らの意志と関連した活動であったというほかには、説明のしようがない。その中心にあったのが安羅国である。安羅国は広開土王碑文にもあるように、4世紀末から5世紀ころには金海の勢力と双璧をなす伽耶諸国の有力な国として成長しており、高句麗と新羅に対抗する軍事力を誇るほど、伽耶諸国の中でも確固たる立地を固めていたと思われる。金官国が滅びる530年代以後になると、南部伽耶諸国内において盟主的な勢力として成長しながら、衰退期にあった伽耶諸国の求心的な役割を果たした国であった。任那日本府問題が安羅国を舞台にして展開されたのも、伽耶諸国の自立を目指す主体勢力が、安羅国そのものであったからである。

要するに、任那日本府とは、伽耶諸国が国家的危機に瀕した540年代、安羅国が中心となって伽耶諸国の独立のために活動した人間集団であるとみた方が合理的な考え方であろう。

5. 百済と倭

韓半島の三国のうち、倭国と最も密接な関係を結んでいた国は百済であった。百済と倭国は、国交の成立から滅亡に至るまで、まるで兄弟国のような親縁関係を結んできた。両国の国交成立は、一般に『日本書紀』の神功紀46年条から52年条にかけて、卓淳国の仲介によってなされたという内容と、百済が倭王に送った七支刀の銘文の年号を、東晋の太和4年(369年)とみたことに根拠を置いている。しかし七支刀は、年号の問題も併せて製作時期が1世紀以上下る可能性が高く、神功紀記事の信頼性に多くの疑問が提起されており、4世紀後半の近肖古王代の国交成立説は、論難の的となっている。

百済は、近肖古王の代に、南部伽耶諸国を通して倭国に関する情報を入手していたと思われる。両国の関係が緊密になった契機は4世紀末、高句麗広開土王の南征であった。広開土王碑文に表れているように高句麗は396年、58の城と700余りの村落を落として王都に攻め入り、阿莘王を降伏させた。国家的危機に直面した百済は397年、太子直支を倭国に派遣する。広開土王碑文にも「百済が誓いを破り倭と通じた」と記している。数十年にわたって、高句麗と軍事的抗争を繰り広げている百済としては、長期的な軍事パートナーとして倭国を選択したのである。

以後、両国の軍事協力体制は持続的に維持され、数々の人的、物的交流が行われた。5世紀後半、百済の蓋鹵(ケロ)王は、倭国に昆支(コンジ)を派遣する。昆支は、461年倭国に渡り、以後16年間長期滞在することになる。蓋鹵王が昆支を派遣した理由は、倭王権の親百済路線を持続的に維持させる意図があったと考えられる。ところが475年、高句麗の攻撃を受けた百済は、蓋鹵王が殺され王都が陥落して熊津(ウンジン)に南遷するなど、大混乱に陥ることになる。さらに、国内の政争により、文周(ムンジュ)王と三斤(サムグン)王が殺される事態に見舞われる。その最中、倭国で生まれた昆支の息子が帰国して、東城(トンソン)王として即位する。親倭的な性向をもつ東城王の即位により、百済と倭国間の協力体制を一層揺るぎないものにすることができた。6世紀ごろの百済と倭国の先進文物と軍事的支援という相互交流は、このような土台の上に行われていた。

東城王に継いで即位した武寧(ムリョン)王は、前代に続いて親倭路線を継承することになる。武寧王代の百済は、南下政策を積極的に展開して蟾津江方面の伽耶地域に進出し、倭王権は百済の政策に同調して兵力を派遣している。これに対し百済は、五経博士(オギョンバクサ)など高級人的資源を派遣する。武寧王の跡を継いだ聖王代には、韓半島の諸国が同盟と連合を繰り返しながら激しい領土戦争を展開していた時期であった。聖王は、このような戦乱の危機を乗り越えるため、南朝の先進知識と技術を有する諸博士を倭国に派遣している。なかでも、聖王が百済の仏教を伝播したことは、倭国にとって最大の贈り物であった。

百済と倭国間の交流の特徴をみると、百済から倭国に渡った人的な対象として、手工業者をはじめとする技術集団、儒教の経典に精通した知識人、仏法を伝授する僧侶の階層が主流を成していた。今来漢人(クムレハンイン)または今来才伎(クムレジェギ)と呼ばれる技術者集団の渡来は、7世紀以前倭国の支配組織であった部民制の起源となっている。今来漢人で編成されたとされる陶部、鞍部、画部、錦部、訳語などは、朝廷が必要とする世襲的な専門職業集団である。これは、「周書」の百済伝にみられる百済内官制の穀部、肉部、馬部、刀部、薬部などの制度がその原型となっている。日本の、古代国家形成期における生産組織の根幹を成す部民制の体系的な定着と発展のためには、外部からの先進技術集団を受け入れる必要があった。これを恒常的に提供したのが百済であった。

百済が提供したのは生産文化だけではなかった。医(医薬)、易(卜筮)、暦(訳本)に明るい諸博士の派遣も注目される。なかでも諸博士、工人たちが順番制で交代したという事実からも分かるように、彼らは一定期間の定期的な派遣を通じて、百済の先進文化を倭国に伝授した専門人材だったのである。さらには、仏教伝法師としての僧侶と各種仏像や仏具、そしてこれを製作する工人たちの派遣を通して倭国の政治、文化は発展を遂げることになる。

640年代に入ると、韓半島三国の軍事的な対立が激しくなり、東アジア諸国を相手取った軍事外交も熾烈さを増していく。この時期、百済の最大の敵は新羅であった。百済は、高句麗領有となった漢水(ハンス)流域を、新羅との連合により取り戻すことに成功した。しかし、新羅の裏切りによって漢水流域を奪われ聖王が戦死を遂げるなど、6世紀後半以来、新羅に対する敵対心が高まっている状態であった。641年、義慈(ウィジャ)王代の百済は、新羅の西部を攻撃して打撃を加え、軍事的な優位を確保した。百済と新羅の対立は、両国の対外外交を強化させた。新羅は、当代最高の実力者である金春秋(キム·チュンチュ)を倭国に派遣して支援を要請する一方、百済はすでに数年前に豊(プン)王子など、大規模使節団を派遣していた。しかし、新羅は唐の援助を受け、13万の唐軍と5万の新羅軍を合わせた兵力で660年、百済を滅亡させた。

660年9月、百済使によって倭国の朝廷に伝えられた第一報は、新羅が唐人を受入れて百済を転覆させ、君臣を全て捕虜にして、生き残った者がいないとの知らせであった。続いて10月には、唐の捕虜100人余りを貢いで救援を要請している。これを受けて、倭王権は同年12月、百済の救援計画に取り掛かり、筑紫の那大津を本営とする出兵の準備を完了する。661年8月、倭国に滞在していた百済の豊王子が復興軍の首長として帰国する際、5000人の護衛兵を送り、翌年の正月には10万個の矢を含む大量の戦争物資を送り込んだ。続いて5月には水軍170隻を、そして663年3月には2万7000人の大規模兵力を増派している。

百済国の成立後、滅亡に至るまで両国は、支配層間の持続的な接触を通じて互いの絆を深めていった。これは、一時的で単純な同盟関係ではなく、長期的な歴史の流れの中で築かれていった親縁関係であった。古代の東アジア諸国のうち、国交の成立から滅亡に至るまで、百済と倭国ほど親縁性を維持し続けた国はほかには見当らない。それは、古代国家の形成過程という時代の流れの中で、互いを必要とする条件と状況が一致したからである。その過程で交流が盛んになり、支配層間の信頼と友好関係が深まっていったのである。

6. 高句麗と倭

倭王権が東アジアの表舞台に初めて登場したのは、高句麗広開土王の南征という事件に関わったことが契機となった。百済の支援要請に応えて、初めて公的な派兵に踏み切った倭王権は、高句麗の優れた騎馬兵隊を相手に、惨憺たる敗北を味わうことになる。この時期に形成された古代日本の高句麗認識は、強盛のイメージとして根づき、その後日本の高句麗観を形成する上で、この上なく大きい影響を及ぼすことになる。

文化的な後進性を克服するため、韓半島南部の諸地域と交流していた日本列島の諸勢力は、高句麗の南征という大きな逆風に阻まれ、王権の維持に必要な鉄資源など、先進文物の輸入に大きな制約を受けた。軍事的には高句麗に太刀打ちできなかった倭王権は、中国南朝の宋との外交を通して解決しようとしていた。倭王武が宋の皇帝に奉じた上表文には、高句麗に対する憎悪の念が切々と訴えられている。広開土王時代まで遡る、倭王たちが経験した過去の記憶が重ねられ、宋皇帝の感性に訴えようとしたと考えられる。ところが「強敵」高句麗を、韓半島南部から撤退させようとした倭王の対宋外交は失敗に終わってしまう。対宋外交が失敗して以来、倭王権の対中通交は断絶したまま、百済との関係の中で先進文物を取り入れることになる。

6世紀以降になると、急成長を遂げた新羅は高句麗が治めていた漢江流域を接収し、続いて高句麗領の韓半島東北方地域まで浸透していった。この時、高句麗は公的な通交が一度もなかった倭に対し、東海(トンへ)を横断する海上ルートを通じて使節を派遣する。新羅勢力の成長にともない、倭と軍事協力体制を構築するための動きであった。高句麗使を迎える倭王権の認識は、警戒と歓迎が交錯する二重的態度を堅持した。高句麗使のための迎賓機関を新たに造営し、装飾船を建造して出迎えた。高句麗使に対する倭王権の態度は、7世紀初めの隋使一行と肩を並べられるほど、外交的な礼儀を尽くしていた。それは、高句麗に対する強い畏敬の念の発露にほかならないのである。かつて高句麗の強大な軍事力に押され、対宋外交を通じて対応を試みたことがあり、また時には百済を支援して対抗せざるを得なかった高句麗が倭国を訪れたということ自体、倭王権にとっては興奮せずにはいられない出来事であった。倭王欽明の詔書にも表れているように、友好的な態度を明確にした。

倭王権は、用明朝(586~587年)時代、倭王権としては初めて阿倍比等古という使節を高句麗に派遣した。高句麗の使節派遣に対する答礼であった。瓔陽(ヨンヤン)王6年(595年)、高句麗は僧、恵慈(ヘジャ)を派遣する。恵慈は、推古朝に「摂政に臨み満期を委任した」とされる聖徳太子の師となり、彼の政治、外交上の顧問役を果たした。恵慈は、仏教の教理のほかにも多様な知識を兼ね備えた、当代最高の教養人であった。恵慈が渡日した翌年、飛鳥寺が完成する。この寺は、倭国初の伽藍形式を採った官寺的な傾向を帯びた寺院であった。恵慈は「仏教を布教し、さらに仏法の柱となった」と言われるように、初期の倭国仏教界を指導しながら、その育成と発展に大きな役割を果たした。

7世紀に入ると、推古9年(601年)3月、倭王権は大伴連囓を高句麗に派遣する。彼は翌年の6月、百済を経由して帰国するが、これは倭国の対高句麗外交の内容を百済側に伝えるためであったと考えられる。つまり、570年に高句麗が意図した高句麗-百済-倭を結ぶ軍事協力体制が、倭国の協力によって成立したことを示すものである。続いて605年には、高句麗の瓔陽王が倭王権の仏像造営に黄金300両を送る。高句麗は、610年にも曇徴(タムジン)と法定(ボプチョン)二人の僧侶を送り、彩色法のほかに紙·墨·碾臼の製造法を伝授するなど、高句麗から文化、芸術的才能を持つ僧侶が派遣された。623年には、高句麗の栄留(ヨンリュ)王が慧灌(ヘグァン)を派遣しているが、彼は倭国の仏教界を総攬する僧正の職に任命された。このように、7世紀前半は仏教文化をはじめ、高句麗文化の多くが倭国に流入された。

このように両国の緊密な交流の中で、倭王権は高句麗使に対し「神子」が送った使節だとして、畏敬の念を示している。これは、ほかの韓半島諸国とは明らかに区別される差別的表現であり、高句麗に対する強い絆、そして敬愛と尊崇の発露であった。

以後両国は、高句麗が滅びる668年まで使節を交換して、緊迫した東アジア情勢の中で情報を交わすなど、緊密な関係を維持した。しかし倭国は、羅唐連合軍の挟撃により、衰退の一路を辿る高句麗に協力するのは大変なことであった。百済の滅亡以来、羅唐連合軍の侵攻に対する倭国自体の危機意識が深刻化したからである。6世紀末以後1世紀の間友好関係を維持しつつ、高句麗から様々な文化的恩恵を被った倭国は、日本列島に流入する高句麗の流民を受け入れるほかには、なすすべがなかったのである。

7. 新羅と倭

新羅の対倭関係は、両国の地理的要因により、古代国家形成期の初期の頃から交渉が始まっていた。「三国史記」の新羅本記によると、5世紀以前までおよそ50回余りにわたる倭との交渉の記事が出てくる。倭人、倭兵の侵入記事が殆どであるが、その中には外交的な性格を帯びた使節の往来も多数見られる。3世紀半ば、昔于老(ソク·ウロ)の伝承は、当時、蔚珍(ウルジン)方面の優由国(ウユグク)と北九州の倭との交渉事実を物語っている。倭使節の接待を任された于老が、失言をして倭人の手に殺されると、于老の婦人が復讐するという内容である。説話的な色合いの濃い内容ではあるが、古代国家の形成初期における、韓日の地域首長間の交流実態を見せてくれるものである。

4世紀末になると、広開土王の南征にともない、百済と倭が軍事同盟を結ぶと、これに不安を感じた新羅は402年、奈勿(ネムル)王子の未斯欣(ミサフン)を倭国に派遣する。これは、百済の対倭軍事同盟を弱体化させ、親新羅寄り路線への旋回を図る新羅の外交戦略であると考えられる。ところが、新羅が派遣した未斯欣は倭国に抑留されてしまう。百済と倭国の軍事同盟を和解させるには及ばず、それほど両国関係の結びつきは固いものだったとみられる。

6世紀になると、百済と畿内の倭王権間の活発な交流の最中、新羅と北九州の首長磐井の間で政治的な連合が図られた。新羅と北九州の首長間の政治的な結託は、畿内の大和政権と百済の軍事同盟に対する対応策と考えられる。新羅と百済は、北の高句麗に対しては共同の歩調を取りながらも、伽耶諸国をめぐっては対立的でかつ競争的な関係にあったため、日本列島内の諸勢力と協力体制を構築する必要があったように思われる。6世紀代は、新羅の伽耶方面に対する軍事的な進出が本格化して、倭王権と交流が深かった金官国などを併合している。これにより、両国関係はさらに悪化し、7世紀初めの頃までは緊張状態が続いた。

このような両国関係は610年、新羅の対倭遣使派遣を機に、変化の兆しが見えてくる。この年派遣された新羅使に対する倭王権の態度が注目される。新羅の使節を迎える倭国の態度は、異例というほど外交的に儀式張っていた。このような外交路線の変化は、直接的には倭王権の対隋外交と関連があるように思われる。対隋通交が円滑であるためには、中国に通じる海上交通路の安全が重要であった。遣隋使の主要通過地域を新羅が掌握している限り、航海の安全性を保障するのは難しく、新羅の脅威は現実的な可能性を帯びていた。推古18年(610年)の新羅使に対する外交儀礼は、まさに対隋外交を意識した対外関係の大きな修正であった。従来の百済と高句麗中心の外交から、新羅と隋を含む多面的外交へと拡大させたのである。

これを機に、新羅は仏教文化を中心とした先進文物を提供しつつ、倭王権との関係を緊密にしていく。日本の広隆寺が所蔵している国宝1号の木造弥勒菩薩像は、この時新羅によって伝えられたものである。隋と唐が交替する時期に至り、新羅は送使外交を通じて対倭外交を強化していく。送使外交とは、中国に派遣された倭の使節を、新羅の船で倭国に帰国させることである。新羅はこの年、外交事務を司る領客府を領客典に改称した。領客府の本来の名称は倭府で、元来対倭関係事務を主管していた部署が拡大再編されたと考えられる。外交機構の拡大は、対倭外交を含む新羅の国際外交が強化されたことを表すものである。送使外交の成立により、倭国は倭ー新羅ー唐を結ぶ陸と海の交通路を確保することができた。同時に、新羅と唐の先進文物の輸入も容易になった。7世紀前期における新羅と倭国は、隋唐の出現と韓半島情勢の変化に応じて新しい外交関係を樹立しては、自国に有利な国際関係を築いていったのである。

645年、倭王権は朝廷の権力を専横した曽我氏を打倒し、大化の改新を実現して王族中心の改新政権を成立させた。翌年の9月、改新政権初の外国使節を新羅に派遣した。これは、改新政権の正統性を知らせ、新羅に対する友好的な立場を伝えようとする意志の表れと考えられる。もうひとつの目的は、632年以来断絶していた倭王権の対唐通交を、新羅の仲介によって打開することにある。一方、新羅では緊迫した韓半島情勢の下、新たに成立した倭国の改新政権に金春秋を派遣した。当時金春秋は、上大等の位にあった毗曇(ビダム)が王位簒奪を狙って起こした乱を収拾し、実質的な権力の最高位にいた人物である。彼の倭国行きは、倭王権から親新羅路線に対する確約を取り付けるための外交が目的であった。『日本書紀』は、金春秋について異例にも「春秋の容貌が秀麗で話術に長けている」と特記しているほど、倭王権の支配層に強い印象を与えた。

対倭外交を一段落させた金春秋は、倭国の対唐上表文を携えて648年唐に入り、倭国と唐の通交を仲介した。続いて649年には、金多遂(キム·ダス)が倭国に派遣され、金春秋が果たした仲介役の結果を伝えた。こうした中、651年には唐服を身に纏った新羅使が倭国に来た。新羅使が唐服を着て倭国に来たのは、一種の政治外交的な攻勢であり、唐の権威を後ろ盾にした新羅が、倭王権に対する威圧を表すものである。これは、新羅ー唐ラインの強い結びつきを誇示するものであり、倭王権にして文化的な交流関係を超えて政治軍事的な連合を強いるメッセージであった。

654年、倭王権が外交路線上、明確な立場を表明せざるを得ない出来事が発生した。唐の高宗が倭王に対し、新羅が高句麗と百済の攻撃を受けた際、出兵して救援することを命じたのである。これを受けて、倭王権は新羅―唐ラインへの一方的な編入を拒み、それまで相対的に消極的だった百済、高句麗と緊密な関係をもつようになる。655年、唐が高句麗に対して大規模な軍事攻撃を行った。これは、倭王権にも危機意識をもたらした。このため、倭朝廷は656年、王都飛鳥を防衛するための大規模な軍事施設物を築造した。このような事態は、明らかに唐と新羅が倭国を敵対しているという、倭王権の危機意識から出たものである。唐は、唐に近づきつつ、一方で高句麗や百済とも通じている倭王権の二重外交を許さなかった。新羅もまた、唐の巨大な軍事力を背景に、唐の外交方針に同調していた。657年、倭王権が遣唐使を新羅の使節に付かせて送ろうとしたが、新羅はこれを断っている。

その2年後、倭国が派遣した遣唐使一行が唐に抑留される事件が発生した。『日本書紀』に引用された伊吉連博徳書によると、唐は659年に派遣された遣唐使に対し「国家(くに)、来年に必ず海東の政(まつりごと)あらむ。汝等(いましたち)倭客、東帰すること得ざれ」という勅旨を下して、彼らを幽閉してしまう。唐の、このような措置は、倭が高句麗―百済ラインに加わっており、必ず軍事的な協調を取るに違いないという判断から出たものである。正に、唐の軍事的な機密漏れを防ぐための措置と考えられる。

7世紀以降、新羅が活発な対倭外交を進めて先進文物を提供したのは、対立関係にあった百済を牽制するための手段であった。新羅のこのような計略は成功を収め、唐の軍事協力に対する確約を取り付けた後で、倭国もこれに加わるように強制しながら、660年には百済を、668年には高句麗まで滅ぼして三国を統一した。これは、国際関係を効率的に利用した新羅の外交術の勝利であったといえる。

8. 統一新羅と日本

新羅と唐の連合軍は、660年と668年にそれぞれ百済と高句麗を滅ぼした。しかし、新羅の意図に反して、唐は熊津に都督府を、そして平壌(ピョンヤン)には安東(アンドン)都護府を置いて、占領地に対する支配体制を構築しようとした。これを受けて、新羅は対唐戦争を展開するため、後方の安全を図る目的から668年9月、金東厳(キム·ドンオム)を使節として日本に派遣し、国交を再開した。日本も、白村江(べクチョンガン)の戦いでの敗戦で国内の危機が高まり、羅唐連合軍の侵攻に備えて山城を築造するかたわら、沿岸に兵力を配備するなど、防衛網を構築している最中であった。日本としても、国内における支配体制の安定を図るためにも、新羅との国交を修復する必要があった。このようにして再開された両国関係は、公的な交流が終了する779年まで、新羅から46回、日本から27回の使節を相手国に派遣している。

7世紀後半、新羅の対唐関係は、唐の勢力を韓半島から追い出すため戦争を繰り広げるなどの敵対関係にあり、唐とは一定の距離を置いていた。日本もまた、7世紀末まで唐との交流を断絶したまま、新羅との交流に力を入れていた。両国は、唐を意識した共存関係にあり、比較的平和裏に交流を展開していた。この時期、両国の交流の特徴として、新羅文化の日本伝播が挙げられる。日本にとって、新羅は海外の先進文物を受け入れる唯一の通路であった。日本は律令国家を樹立するため、新羅の法令、仏教、学問、思想など、多方面にわたり新羅から学ぼうと努めた。新羅使の日本滞在期間に比べ、日本使節の新羅滞在期間は新羅使の2倍をはるかに超えるものだった。このような事実から、公的任務が終わった後、新羅の各種制度と思想に接したり生産工房施設を見学するなど、多様な文化を体験したと考えられる。日本における律令国家の樹立は、この時の新羅との交流に基礎を置いている。

8世紀に入ると、日本は新羅に対し、政治的に居丈高な態度を取り始める。天皇制の律令国家を樹立した日本は律令法典の中に、新羅を日本の夷の国または朝貢国と看做す条文を盛り込んだ。新羅より優れているという優越性を強調する競争心理から出てきたものであるが、現実の外交の場においてもこれを実現させようとしたのである。新羅の使節に対して国書の持参を求めたり、身分の高い使節の派遣を要求するなどであった。これに対し、新羅の反応は日本の要求を殆ど無視しており、新羅に派遣された日本使節の無礼を指摘して引見を許さないなど、断固とした措置を取った。このため、両国の間で度々外交的摩擦が生じることもあった。

このような対立にもかかわらず、新羅は豊富な生産力と優れた手工業技術を基に、対日交易に力を入れた。新羅の生産工房で作られた数々の品物と、唐を経由して入ってきた外国の物資が、新羅を通して日本に流入された。752年、日本に派遣された金泰廉(キム·テリョム)を首席とする700人余りの使節団は、外交的な任務だけでなく交易を目的にして派遣された。当時の日本は、国家機構の拡充と寺院の造営などのため、国家的に数多くの物資を必要としていた。そのうえ、貴族層の高い文化意識を反映するかのように、舶来品に対する欲求も強く、新羅から入ってくる多様な贅沢品に対する購買欲も強かった。日本の官人や貴族層が新羅の物品を購入するために、その品目と価格を書いて官庁に上げた明細書の「買新羅物解」に記された内容を見ると、食器類など生活用品をはじめ、絨毯、仏教関連製品、薬物、香料、硝子製品など、あらゆる種類の物品が出てくる。現在、東大寺の宝物倉庫になっている正倉院の遺物は、当時の新羅と日本の交流の実像を語っている。

しかし、779年以降、両国の公的な交流は終焉を迎えることになる。新羅の後期に入ると、支配層内部の分裂抗争が激化する一方、地方の豪族が勢力を伸ばして中央の統制が難しくなっていた。9世紀に入ると、国内の混乱を避けて日本に渡る新羅人が増えてくる。また、張保皐(チャン·ボゴ)のように、民間レベルで海上貿易に携わる人が多くなった。彼らは、唐と活発な交易を繰り広げるかたわら、日本にも渡航して京の貴族層と九州の在地豪族間の私的な貿易を果たすなど、民間レベルの文物の交流が行われた。日本の朝廷は、新羅人と在地勢力間の結託を恐れ、これを抑制する政策を取った。その後、日本は次第に周辺諸国に対して排斥したり、閉鎖的な態度を取るようになっていった。

9. 渤海と日本

渤海(バルへ)は、高句麗の継承を掲げた大祚榮(テ·ジョヨン)が、かつて高句麗の領土において高句麗の流民と靺鞨人を統合して建国した国である。建国初期は振国(ジングク)と称していたが713年、唐より渤海郡王(バルへグンワン)の封爵を授けられ、後に渤海と称するようになった。渤海の対日交渉は、727年に最初の使節を派遣して以来、滅亡に至る10世紀初め頃まで続いた。渤海の二代目武(ム)王代の726年、隣接している黒水靺鞨部が渤海領を通過して唐に使者を送ったことがあり、唐は黒水靺鞨部に黒水州を置いて隷属化を図った。これを機に、渤海の対唐関係は悪化した。このような状況を背景に、渤海の対日遣使は、唐と協力している新羅が背後の脅威になっていると判断し、新羅を牽制するため日本と外交関係を結ぼうとしたのである。

渤海と日本の公式使節をみると、渤海から日本に使節を派遣したのは34回、日本が渤海に送った使節は13回にのぼった。東海の荒波を横切り、遭難と漂流が繰り返される危険を甘受しなければならない悪条件の中の航海と、229年という比較的短い渤海の存続期間を踏まえると、47回という交流回数は、両国の関係が如何に緊密であったかを物語っているといえよう。

高仁義(コ·インウィ)が派遣された727年から763年までは、渤海との交流に関心を持つよう誘導することで、日本を自らの背後勢力として強固なものにしていった。渤海は、自分こそが高句麗を継承した国家であることを明確にする一方、安史の乱という、大陸の危機的状況をも伝えていた。こうした中、日本は危機的な情勢を利用して新羅侵攻の計画を企てることもあった。しかし、渤海はこのような日本の関心を充分に活用して、渤海使の招聘と入国の全過程にわたる便宜を図ってもらいながら、両国の交流の基盤を確実に固めていった。

大陸の情勢が安定する8世紀後半にさしかかると、渤海は外国に対して自信をつけ、またその自信を基に積極的な外交を試みるようになる。しかし、その自信が原因となり日本との間で数回の外交的な葛藤を引き起こしている。771年、壹萬福(イル·マンボク)が派遣された際、国書の中で渤海は自らが天孫であることを強調し、渤海と日本の関係を伯父と甥の間柄に表現して、ひとたび葛藤を惹き起こしている。また、渤海使の到着地をめぐり、日本は筑紫路を経て大宰府に入国することを強く勧めたが、渤海は引き続いて北路を利用した。さらに、訪問期限をめぐる攻防もあった。日本は12年1回の訪問を提案したが、渤海はこれを無視して持続的な訪問を要求するようになる。しかし、このように大小様々の葛藤は、結局すべて渤海の要求どおり収束された。筑紫路を要求していた日本は、結局、北路の到着地に当たる能登半島に渤海客院を置く一方、渤海使の訪問に制限を設けないようになった。このように、8世紀後半の様々な葛藤が治まると、9世紀以後渤海の使節が次々と派遣されることになる。

このように、両国の交流は結局、渤海の要求どおり展開していった。日本としては、渤海と関係を悪化させ、交流を通して得ていた恩恵を放棄することはできなかったのである。また、渤海はこれを適切にコントロールしていたわけである。まず、日本は渤海を通して大陸の文物を輸入したり、遣唐使間の連絡を円滑に進めることができた。とりわけ894年、遣唐使が公式的に廃止され、大陸との連携は渤海にかなりの部分を依存することになる。次に、渤海の使節が携えてくる珍貴な産物に対する欲求を満たすことができた。渤海の主な輸出品は毛皮で、このほかにも各種海産物や人蔘、蜂蜜など、様々な産物の交流が行われた。渤海の使節が運んできた物品を王室も直接購入したほか、貴族たちも直接物品を取引した。時折、購買欲が過剰なあまり、日本の朝廷は制限措置を取ることもあったが、渤海使の訪問とそれにともなう交流を制限することはできなかった。

両国は、政治経済的な利益と欲求の充足に留まらず、多様な文化交流の場を切り開いていった。なかでも、9世紀以後展開された両国の文人の間における漢詩の交流は、文化交流の醍醐味といえるであろう。渤海からは楊泰師(ヤン·テサ)、王孝廉(ワン·ヒョリョム)、裵頲(べ·ジョン)など、当代最高の文士たちが使節団に加わったほか、彼らを迎える日本からも菅原道真、大江朝綱、嶋田忠臣など、当代一の文士たちが宴会に出席した。さらに、渤海使節の訪問時に開催された宴会の場で披露された渤海音楽は、後に日本の宮廷における右坊楽の一部分として位置付けられるようになった。

このように渤海は、積極的かつ用意周到な戦略を駆使して日本との交流を自国に有利な状況にしていくとともに、政治、経済、文化にわたり、様々な交流の場を展開していった。

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