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新羅の対倭関係は、両国の地理的要因により、古代国家形成期の初期の頃から交渉が始まっていた。「三国史記」の新羅本記によると、5世紀以前までおよそ50回余りにわたる倭との交渉の記事が出てくる。倭人、倭兵の侵入記事が殆どであるが、その中には外交的な性格を帯びた使節の往来も多数見られる。3世紀半ば、昔于老(ソク·ウロ)の伝承は、当時、蔚珍(ウルジン)方面の優由国(ウユグク)と北九州の倭との交渉事実を物語っている。倭使節の接待を任された于老が、失言をして倭人の手に殺されると、于老の婦人が復讐するという内容である。説話的な色合いの濃い内容ではあるが、古代国家の形成初期における、韓日の地域首長間の交流実態を見せてくれるものである。
4世紀末になると、広開土王の南征にともない、百済と倭が軍事同盟を結ぶと、これに不安を感じた新羅は402年、奈勿(ネムル)王子の未斯欣(ミサフン)を倭国に派遣する。これは、百済の対倭軍事同盟を弱体化させ、親新羅寄り路線への旋回を図る新羅の外交戦略であると考えられる。ところが、新羅が派遣した未斯欣は倭国に抑留されてしまう。百済と倭国の軍事同盟を和解させるには及ばず、それほど両国関係の結びつきは固いものだったとみられる。
6世紀になると、百済と畿内の倭王権間の活発な交流の最中、新羅と北九州の首長磐井の間で政治的な連合が図られた。新羅と北九州の首長間の政治的な結託は、畿内の大和政権と百済の軍事同盟に対する対応策と考えられる。新羅と百済は、北の高句麗に対しては共同の歩調を取りながらも、伽耶諸国をめぐっては対立的でかつ競争的な関係にあったため、日本列島内の諸勢力と協力体制を構築する必要があったように思われる。6世紀代は、新羅の伽耶方面に対する軍事的な進出が本格化して、倭王権と交流が深かった金官国などを併合している。これにより、両国関係はさらに悪化し、7世紀初めの頃までは緊張状態が続いた。
このような両国関係は610年、新羅の対倭遣使派遣を機に、変化の兆しが見えてくる。この年派遣された新羅使に対する倭王権の態度が注目される。新羅の使節を迎える倭国の態度は、異例というほど外交的に儀式張っていた。このような外交路線の変化は、直接的には倭王権の対隋外交と関連があるように思われる。対隋通交が円滑であるためには、中国に通じる海上交通路の安全が重要であった。遣隋使の主要通過地域を新羅が掌握している限り、航海の安全性を保障するのは難しく、新羅の脅威は現実的な可能性を帯びていた。推古18年(610年)の新羅使に対する外交儀礼は、まさに対隋外交を意識した対外関係の大きな修正であった。従来の百済と高句麗中心の外交から、新羅と隋を含む多面的外交へと拡大させたのである。
これを機に、新羅は仏教文化を中心とした先進文物を提供しつつ、倭王権との関係を緊密にしていく。日本の広隆寺が所蔵している国宝1号の木造弥勒菩薩像は、この時新羅によって伝えられたものである。隋と唐が交替する時期に至り、新羅は送使外交を通じて対倭外交を強化していく。送使外交とは、中国に派遣された倭の使節を、新羅の船で倭国に帰国させることである。新羅はこの年、外交事務を司る領客府を領客典に改称した。領客府の本来の名称は倭府で、元来対倭関係事務を主管していた部署が拡大再編されたと考えられる。外交機構の拡大は、対倭外交を含む新羅の国際外交が強化されたことを表すものである。送使外交の成立により、倭国は倭ー新羅ー唐を結ぶ陸と海の交通路を確保することができた。同時に、新羅と唐の先進文物の輸入も容易になった。7世紀前期における新羅と倭国は、隋唐の出現と韓半島情勢の変化に応じて新しい外交関係を樹立しては、自国に有利な国際関係を築いていったのである。
645年、倭王権は朝廷の権力を専横した曽我氏を打倒し、大化の改新を実現して王族中心の改新政権を成立させた。翌年の9月、改新政権初の外国使節を新羅に派遣した。これは、改新政権の正統性を知らせ、新羅に対する友好的な立場を伝えようとする意志の表れと考えられる。もうひとつの目的は、632年以来断絶していた倭王権の対唐通交を、新羅の仲介によって打開することにある。一方、新羅では緊迫した韓半島情勢の下、新たに成立した倭国の改新政権に金春秋を派遣した。当時金春秋は、上大等の位にあった毗曇(ビダム)が王位簒奪を狙って起こした乱を収拾し、実質的な権力の最高位にいた人物である。彼の倭国行きは、倭王権から親新羅路線に対する確約を取り付けるための外交が目的であった。『日本書紀』は、金春秋について異例にも「春秋の容貌が秀麗で話術に長けている」と特記しているほど、倭王権の支配層に強い印象を与えた。
対倭外交を一段落させた金春秋は、倭国の対唐上表文を携えて648年唐に入り、倭国と唐の通交を仲介した。続いて649年には、金多遂(キム·ダス)が倭国に派遣され、金春秋が果たした仲介役の結果を伝えた。こうした中、651年には唐服を身に纏った新羅使が倭国に来た。新羅使が唐服を着て倭国に来たのは、一種の政治外交的な攻勢であり、唐の権威を後ろ盾にした新羅が、倭王権に対する威圧を表すものである。これは、新羅ー唐ラインの強い結びつきを誇示するものであり、倭王権にして文化的な交流関係を超えて政治軍事的な連合を強いるメッセージであった。
654年、倭王権が外交路線上、明確な立場を表明せざるを得ない出来事が発生した。唐の高宗が倭王に対し、新羅が高句麗と百済の攻撃を受けた際、出兵して救援することを命じたのである。これを受けて、倭王権は新羅―唐ラインへの一方的な編入を拒み、それまで相対的に消極的だった百済、高句麗と緊密な関係をもつようになる。655年、唐が高句麗に対して大規模な軍事攻撃を行った。これは、倭王権にも危機意識をもたらした。このため、倭朝廷は656年、王都飛鳥を防衛するための大規模な軍事施設物を築造した。このような事態は、明らかに唐と新羅が倭国を敵対しているという、倭王権の危機意識から出たものである。唐は、唐に近づきつつ、一方で高句麗や百済とも通じている倭王権の二重外交を許さなかった。新羅もまた、唐の巨大な軍事力を背景に、唐の外交方針に同調していた。657年、倭王権が遣唐使を新羅の使節に付かせて送ろうとしたが、新羅はこれを断っている。
その2年後、倭国が派遣した遣唐使一行が唐に抑留される事件が発生した。『日本書紀』に引用された伊吉連博徳書によると、唐は659年に派遣された遣唐使に対し「国家(くに)、来年に必ず海東の政(まつりごと)あらむ。汝等(いましたち)倭客、東帰すること得ざれ」という勅旨を下して、彼らを幽閉してしまう。唐の、このような措置は、倭が高句麗―百済ラインに加わっており、必ず軍事的な協調を取るに違いないという判断から出たものである。正に、唐の軍事的な機密漏れを防ぐための措置と考えられる。
7世紀以降、新羅が活発な対倭外交を進めて先進文物を提供したのは、対立関係にあった百済を牽制するための手段であった。新羅のこのような計略は成功を収め、唐の軍事協力に対する確約を取り付けた後で、倭国もこれに加わるように強制しながら、660年には百済を、668年には高句麗まで滅ぼして三国を統一した。これは、国際関係を効率的に利用した新羅の外交術の勝利であったといえる。 |